注)現在タイヤメーカーとの契約はありません


作者について



 自動車評論家、モータージャーナリスト、イベントプロデューサー、レーシングドライバー、シナリオライター、メディアパーソナリティとして幅広く活動中。1000人規模を深夜の山中や都会の公園に度々集めて暴走族と間違われ、警察で7回始末書を書くなど、ユニークな経歴や、とても人様には言えない様々なヤバい経験や修羅場を豊富に持つ。雑誌連載コラムのタイトルからドライバー通称名がドラキンとなる。
 執筆活動はおもに自動車雑誌。商業出版物の執筆は1985年(株)三栄書房発行の「オプション」というチューニング雑誌から。当時のペンネームは編集担当者より「カバ隊長」と命名される。上記の写真と当時では容姿に大きな変化はなく、決してカバに似ているのではない。命名の理由はカバが夜中に走り回る習性を持つ動物だから。ちなみに現在でも習性はそのまま。当時大学生であった青砥浩史がオプション編集者と出会ったキッカケは車楽人アソシエーションのサーキットイベントを運営するモータースポーツクラブWARPの活動の一環として、第3京浜保土ヶ谷パーキングでサーキット走行会開催のためのビラ配りを行なっていたこと。その時の運命の出会いが今日の執筆活動の源となる。その後96年からマインド出版社で雑誌編集長を3年間経験し、広告から流通まで出版全般の基本を身につける。
 大学祭の企画を担当したことからイベントに目覚めて会社を設立し、バブル崩壊でイベント事業を縮小するまで、大規模ショーイベントから結婚式・ライブハウスまで様々なイベントをプロデュースした。当時の青砥の担当業務はプロデュ−サ−、各種ディレクター、シナリオライターなど。
 イベント事業以外に別会社でチューニングショップとレーシングガレージを経営していた経験から、クルマのメカやセッティングの基礎知識、プロドライバーとしての基本テクニックを身に付け、[交通事故は避けて通れる]のはじめにに記されているような、誰よりも多種多様なドライバー経験を持つことになった。バブル崩壊により一時的にレース活動を休止したが、サーキット専門誌編集長就任を機会にドライバー活動を外に広げてゆき、モータージャーナリストとしての礎を築いた。
 青砥がイベントプロデュースと雑誌制作の両輪で身に付けた成果にビデオなどの映像制作がある。コンビニエンスストア(ローソン、セーブオンなど)で発売したセルビデオ作品が3本とレンタルビデオショップ用のレンタル作品が1本、99年に制作した雑誌RaTech付属のCDロムビデオが4作がある。