巨大クルマサークルは
夢を持つことから始まりました
巨大クルマサークルの夢
はじめて作ったクルマサークルは大学の自動車同好会。出身校は東京商船大学の制御工学科(船以外の学科もあった)で、その大学名から想像されるとおり学内には自動車のクラブは存在しなかった。 高校生時代に「限定解除」したクチなので、すでに2輪で峠のワインディングロードやサーキットの走りに目覚めていた。高校3年になって4輪の免許を取るころには当たり前のようにスポーツドライビングを目指した。 高校時代に色々と目覚めてしまったために予備校進学したが、2輪でも4輪でも週に2〜3回はワインディングロードに走りに行き、ヤマハのナナハン(当時かなり個性的だった3気筒でシャフトドライブのGX750という単車)とホンダのクーペ(ホンダ1300クーペという空冷で4キャブのレアなクルマ)を養うために毎日アルバイトの生活が続いた。 まともに受験勉強する暇はなかったから、周囲から「青天のへきれき」などと言われつつ偶然大学生になったけど、すでに学業への意欲はほとんど無に等しく、安直にクルマサークルを作るに至ったのであ〜る。 なんせ金かかるから、母親から送ってもらった学費とアルバイトの稼ぎを全て注ぎ込んでも足りない。サークル活動の資金を確保するために、いつしかビジネスにも目覚めて行く。 「目覚める」という意味で作った会社はウェイクアップと名付け、大学で軽音楽サークルとスキー同好会にも参加していた関係から、ウェイクアップは音楽イベントやスキーツアーを企画したりするところからはじめる。 なんせ若かったから趣味もビジネスもゴチャ混ぜとなってゆき、昭和60年には富士スピードウェイを2時間借りて「サーキット走行会」なるイベントをマーケティング抜きで企画してしまう。 当時の日本には鈴鹿サーキット、筑波サーキット、富士スピードウェイ、スポーツランド菅生、西日本サーキット(現美祢サーキット)、中山サーキットしかなかったと思う。船橋サーキットは船橋ヘルスセンターになっていたし、間瀬サーキットは閉鎖されたままだったから。 走行会という言葉があったのかどうかは記憶にないが、ライセンスを取得せずにサーキットを走る方法はポルシェオーナーズクラブに所属するとか、タイヤメーカーの僅かなイベントに参加するしかない頃のこと。 完全に思い付きだけで企画したイベントだから、第3京浜の港北パーキングでビラ配り(実際に配ったのはビラではなく、封筒入りの立派なパンフレット)までやったけど大赤字。大学のサークルでもいろいろ手を尽くしたが、自動車部の学生でもサーキットを走ろうと考える人はまだ少なかった。 しかしこの時のビラ配りがその後の運命を変える。 元祖走り屋から絶大な指示を受けはじめていた「OPTION」編集部の目に「サーキット走行会」が止まったのである。富士スピードウェイでのサーキット走行会が「オプション」の巻頭カラーを飾り、1/4ページのコラム連載がはじまると、サークル活動は大学の枠を外れて拡大していった。 かくして「巨大クルマサークル」の夢は昭和61年に芽生えたのであ〜る。 |