巨大クルマサークルの必要性
参議院選挙に思うこと
いきなり政治の話では、クルマとは無関係と思われるだろう。ただしヒトとクルマが共存する交通社会と政治は無関係ではない。「ヒトとクルマのNew Being」などとタイトルを付けたくらいだから、理解いただける事を期待したい。 いままで私は国会に参議院は必要ないと思ってきた。理由は簡単で、国家予算のコストがかかるから。まさに「国民に痛みをお願いする」小泉ブームの最中で、同じ国民であるべき国会議員にも痛みをお願いしたいと思う。参議院は衆議院とは異なり、立法に関しては衆議院の参与議会のように解釈していたためだ。 恥ずかしながら白状すると、私自身が物事を決断する際には他人の意見には耳を貸さない所が多分にある。もしかすると今もそうなのかもしれないが、自ら心がけるようにしているので過去の事に思いたいのだが。今迄の人生を振り返ると、そういった独善的発想によって多くの失敗をしてきている。参議院の必要性を感じなかったのは、まさに自分自身の独善的発想の典型で、衆議院で決めた事をわざわざ参議院で粗探しするような事をせず、衆議院だけで法律を決めてしまえば構わないと考えていた。ただし今でも、参議員議員数は現在の半数もいれば充分だと思ってはいる。 さて、本題は巨大クルマサークルのこと。7月4日に別の場所に書いたが、世間のクルマ好きへの風評には多くの誤解がある。 一部の心ないクルマ好き、まだ社会が何たるかを理解できないクルマ好きなお子様、単なるクルマ好きアウトローが存在し、多くの善良なクルマ好きに迷惑をかけている実態がある訳だが、1を知って10を知ったように不勉強に書き立てる報道や無責任な発言を繰り返すスポークスマンのネタになってしまう。またクルマがヒトを変えてしまう例もあって、時には善良なクルマ好きでも社会に迷惑をかける事があるから、危険なクルマを仕事以外の趣味目的で乗り回す事に批判があるのも仕方ない。 さらに省エネ、慢性的な渋滞などを考えてみると、クルマを趣味とする事はますます肩身が狭くなるというもの。 敏感な方は既に気付いていただいたと思うが、私は例によって独善的に「クルマ好きは運転が下手ではいけない」と思っている。誤解を受けると困るので補足すると、下手というのは速いとか、巧みというだけではなく、特に一般公道では安全にクルマを走らせるための知恵を多く含む。 クルマ好き、とくに走り屋と称されるドライバーには徹底的にマナーと知恵を身に付けてもらいたいと思っている。実はそういったマナーと知恵を持っていないドライバーの多くは、クルマ好きでないヒトであることを私は知っている。 ところが、そういった方々は都合よく責任転嫁をクルマ好きな方々に行ない、自分の未熟さを知らないままに我がもの顔で街を走り回っているのだ。クルマへの興味が薄い方はクルマ本体への知識も薄く、またクルマを運転することへの自らの行動意識が低い場合が多い。 あまり非難ばかりしても仕方ないので今日のところは結論を出そう。巨大クルマサークルの必要性のひとつは、クルマ好きの社会的認知であり、ドライバーのレベルアップをアピールすることでの社会貢献なのだ。スモールサークルでは誰も耳を貸してくれない。巨大になれば政治家は必ず耳を貸してくれ、ヘタクソや心ないドライバーから運転免許証を没収する法律を作ってもらえるかもしれない。それだけではない。巨大になれば、多くの方の意見や知恵が反映され、私のような未熟者が独善的思考に陥る事がなくなる。つまり巨大クルマサークルの中には衆議院と参議院が存在できるのである。 |