バブル経済の崩壊は
巨大クルマサークルの夢を打ち砕いた
頭の中が真っ白になってしまった頃
当時のクルマ好きにとって、自動車雑誌は絶対的な情報伝達手段だった。新しいトレンドは、常に自動車雑誌編集部の会議テーブルで生み出されていたと言っても過言ではない。 巨大クルマサークルを生み出す過程としてイベントプロデユースする事になった「車楽人フェスティバル」は、あらたなクルマ文化をイベントから生み出す事を目的とし、あえて自動車雑誌をイベントパートナーに求めることはせず、独自の発想をする人たちを求め集めることを優先したのだった。 その結果としてパートナーに選んだのがテレビ東京とFMサウンド千葉(ベイFM)。すでにクルマイベントとして確立していた「エキサイティングカーショー」(現 東京オートサロン)とは違ったクルマユーザー層を狙ったためでもある。 チューニングカーとメジャー系モータースポーツで構成された「エキサイティングカーショー」は、雑誌の執筆をすでに手掛けていた自分にとって最も得意とする分野のひとつだった。 しかし敢えて得意分野を「車楽人フェスティバル」では前面に打ち出すことをせず、担当ディレクターに幅広いコンセプトワークを委ねたところから徐々に「車楽人フェスティバル」のイベント全体像を見失いだしたように思う。 『コンセプトの寄せ鍋』のような、『演出テクニック数合わせ』のような、焦点の見えないイベントへと進み出してしまったと言わざるをえなかった。 「車楽人フェスティバル」の本格準備にとりかかった1990年当時の日本経済は、それまでの高度成長熟成期には考えられなかった時代に突入しようとしていた。不動産投資こそが絶対的なもので、不動産を所有していれば借金を恐れる心配など全くなかった。 2億円の不動産を所有していれば3億円の借金が出来た時代。コンセプトワークに一抹の不安を感じながらも「車楽人フェスティバル」への投資は膨らんで行った。 購入金額の80%以上を借金で買った不動産を担保に、査定金額の50%の借金をするという信じられない状態。 分かりやすく説明すれば、5000万円の不動産を買うのに1000万円の頭金で4000万円のローンを組み、その不動産を担保に2500万円を借りる。次に2500万円の頭金で1億2千5百万円の不動産を買って6千2百50万円を借りる。これで1000万円の手持ち資金が6千2百50万円に増えて、不動産と多重債務が残るという具合。 それでもバランスシート上では不動産価格が上昇(いわゆる含み益)すれば経営上の問題はないはずだったのだ。まるで現状の日本経済そのままのような。これを繰り返せば億単位の事業資金が準備出来た時代なればこそ、不勉強で若輩者の自分にもチャンスがあった。 「車楽人フェスティバル」には2日間の開催で3万人弱の入場者があり、表向きには大成功で次回へ繋がってゆく可能性を持っていた。しかし、その後のバブル崩壊。 93年の第2回「車楽人フェスティバル」開催への準備資金は不動産価格の下落とともに減少してゆく。 「すでに不動産価格は底を打ち、これから上昇に転じる」という甘い景気観測を信じ、92年に追加購入した不動産がさらに価格下落。あわてて不動産の売却をはじめた時には手後れで、売却価格が購入価格の80%という始末。そこで1年売り惜しんでいると70%になってしまう。ちなみに当時購入した倉庫は、購入価格の10%でも売却が済んでいない。 92年で5年間走り続けてきたレース活動を中止。93年の「車楽人フェスティバル」も開催中止。そこには悪夢の時代が待っていた。当時融資を受けていた生命保険会社はすでに破綻してしまった・・・ |